まさんぽぶろぐ

毒親育ち、ガンサバイバーが借金をかかえてから、資産1000万まで増やして、か細い幸せを手に入れるまでの道のりやノウハウをつづっていきます。

毒親から距離を取ることが唯一の問題解決方法である理由

ここまで引き算的発想が唯一の毒親問題解決である理由について述べてきました。

この記事では、引き算的発想が毒親問題解決に有効なのはわかったけど、「毒親から距離を取る」って具体的にどういう状態?

と思っている方に向けて解説してみます。

 

まず言葉のニュアンスを説明するため、近しい言葉も並べて説明してみます。


毒親から逃げる

親の影響が及ばないところへ退避するという行為ですが、これは実は足し算的発想です。
かくれんぼをしているときに鬼のことを意識しながら逃げる行為と同じで、
親の存在を自我の中で大きくしてしまって、親から逃げている間にも親の存在を意識し続けてしまうことになってしまいます。


毒親を捨てる

これも残念ながら足し算的発想です。
「捨てる」という言葉の心理には、親への攻撃や親への復讐心が潜んでいます。
つまり親の存在が自我の中で大きく感じているがゆえに親に執着をしてしまっており、
捨てるとか捨てたいといった言葉が出てきてしまうということです。
これでは本当の意味で毒親から解放されているとは言えません。


毒親から距離を取る

「距離」という言葉の中には、物理的な意味と精神的な意味の2つが存在しています。
両者の意味はどちらも重要で、毒親から「物理的な距離」を取ることで、毒親に関与されづらい/しない関係を築くことができます。
しかし、身近にスマホがある現代において、常にメールが来るとか、物理的な距離を毒親は簡単に超えることができます。
そこで重要なのが、「精神的な距離」になります。
これは毒親という存在は肯定しつつ、自分の自我のど真ん中に置くのではなく、遠くの片隅に置くようなイメージです。
つまり、自分の自我の中で毒親の存在を小さくコントロールすることができていて、毒親に対して執着がない状態になることを指しています。


例えば電車の中で、知らない誰かが酔っ払って暴言を吐いていたとします。
その人を注意したり、なだめたりするでしょうか?

少なくとも私はしません。
自己の責任や都合で酔っ払っている方を、なんとかしたいと思うような心は持ち合わせておらず、それほど重要視することはできないからです。

では同じように、知らない誰かが送ってきたメールにわざわざ丁寧な反応をしますでしょうか?
少なくとも私はしません。


この「知らない誰か」という人は、確かにそこに存在しているんだけれども、特に重要視していないから気にしないという状態です。
この状態を毒親にも当てはめることができればよいわけです。

ちょっとドライで辛辣な内容に捉えられるかもしれませんが、親を知らない誰かと同じように扱って、親のメールも無視したほうがいいとかを言っているわけではありません。

要は、親だからと重要視して、重要な人物、重要なメールのように扱ったりせず、自分自身が親に囚われていない=執着してない状態が理想ということです。

 


さて、ここまで「毒親から距離を取る」のが具体的にどういう状態を指しているのかを解説してきました。
また毒親から距離を取れている」ことが理想的な状態であることもご理解いただけたと思います。

ですが、理想的な状態はわかっても、その状態にするのは難しいと感じられている方もいらっしゃると思います。
正直、これまで悩んできた方であればあるほど、理想的な状態にするには一足飛びにできることではないと思います。

なので、次回があれば、理想的な状態にする際に潜む「課題」を言語化して明らかにしたうえで、「解決策」を考えていければと思います。

引き算的発想が唯一の毒親問題解決である理由

さて前回の記事では、毒親問題を意識して、問題に対して何かしらの行動や考え方をプラスする足し算的発想では、問題解決はできないということを述べてきました。

この記事では、なぜ引き算的発想が、毒親問題解決の糸口になるのか?について解説したいと思います。


そのためにまず、「足し算的発想がダメである根本的な理由」について考えてみたいと思います。


ちょっとした思考実験をしてみます。

突然ですが、イメージをしてみてください。

あなたの部屋には棚とテーブルがあります。
あなたは新たな本を得ると、棚に置きます。
あなたは考えたいことがあると、棚から本を引っ張り出して目の前のテーブルに広げて考えます。


これが毒親問題の渦中にあると部屋のイメージはこうなるでしょうか。

あなたの部屋には棚とテーブルがありますが、不快な本でいっぱいです。
あなたは新たに不快な本を与えられ、棚に置きます。
あなたは考えたいことがあると、棚から不快な本を引っ張り出して目の前のテーブルに広げて考えます。


ちょっとわけのわからない話をしていますが、
このイメージに「脳の処理」という視点を加えてみると以下のように変換できます。

  • 本            =脳が受け取った情報
  • 棚に置いた本       =脳が記憶していること
  • テーブルに広げた本    =脳が処理していること


何が言いたいかというと、毒親問題の渦中にあると、不快な情報に対して、記憶や脳の処理を最大限に利用する状態になってしまうということです。

これが足し算的発想においては、脳が受け取る不快な情報をより大きく増やすことになってしまい、脳の処理によけいに負荷をかけることになるのです。
だから足し算的発想では根本的にダメなのです。

ここまでくると引き算的発想が有効な理由がわかってくるかと思います。
要は、脳が受け取る不快な情報を減らして、脳の処理に負荷をかけないことが重要ということです。

もっといえば、本来脳に処理をさせたいのは、
ゴミのような不快な情報ではなく、
未来のこと、わくわくすること、楽しいこと、うまくいったこととか、ポジティブな情報であってほしいです。


では最後に、不快な情報を減らして、ポジティブな情報を得ることができたらどうなるかイメージをしてみます。

あなたの部屋には棚とテーブルがあります。
棚は奥が深く、新たな本をいっぱい入れられます。
あなたは素敵な本を与えられ、最初は不快な本でいっぱいだった本棚も、
素敵な本で埋め尽くされていき、不快な本は本棚の奥に追いやられています。
あなたは考えたいことがあると、棚から素敵な本を引っ張り出して目の前のテーブルに広げて考えます。
もうあなたが不快な本を広げることは、あなたが本棚の奥から引っ張り出してこないとできなくなりました。

 

引き算的発想が唯一の毒親問題解決である理由について述べてきましたがいかがでしたでしょうか。
また次回があれば、引き算的発想である「毒親から距離を取ること」の具体的なステップなどについて解説したいと思います。

毒親問題を解決する方法はたった1つ

これまで、私の家庭環境について触れてきましたが、そろそろ具体的な解決方法についても触れていきたいと思います。
まずテーマが広がりすぎないように、問題を「毒親」と定義してみます。


で、結論からいいますと、毒親問題を解決する方法、それは毒親から距離を取ること」です。

ではなぜこの結論に至るのか、思考検証を交えて理由についてお伝えしたいと思います。


まず、「毒親から距離を取ること」以外に、毒親への対策にはどんなものがあるでしょうか?
いくつか挙げてみます。

 

  • 毒親にとっていい子を演じる
  • 毒親に気持ちを吐き出す
  • 毒親を無視する/考えないようにする
  • 毒親を許す

ではこれらの対策に消去法的アプローチで思考検証してみます。


毒親にとっていい子を演じる

毒親との関係性構築という点においては、もっとも有効なアプローチでしょう。
ですが、あなたが毒親と認定している時点で、あなたと毒親が相容れないことがわかっているわけなので、あなたが無理をすることになるでしょう。
あなたの精神を滅ぼし、あなた自身が毒親化していくことでしょう。
よって、このアプローチは不適切です。


毒親に気持ちを吐き出す

これは自身の溜まった想いを吐き出すことで一時的な安堵や高揚感をもたらすかもしれません。
毒親にとっては、これまで知らなかった子どもの想いを知ることができ、見方が変わるきっかけになる場合もあるかもしれません。
また嫌なことは嫌だとはっきり伝えることで何か変わることもあるかもしれません。

ですが、毒親毒親である理由を考えてみると、あなたの想いを知らなかったから、毒親だったのでしょうか?
あなたの想いがどうであれ、毒親毒親側に問題があるから毒親なのです。
あなたの想いなどどうでもよく、自分の価値観を押し付けるタイプの毒親、特に過干渉のタイプの毒親にはあまり効果がないと思われます。
よって、このアプローチも不適切と言わざるを得ません。


毒親を無視する/考えないようにする

子である限り、親を頼る場合もあるため、無視することができないという矛盾が生じて破綻しやすい対策です。
また、無視したり、考えないようにするというのは相手を意識しているからこその行動であり、余計に毒親を意識することになるでしょう。
よって、このアプローチも不適切です。

 

毒親を許す

悟りを開くような高次元のアプローチ方法ですね。

親も人間であるから仕方ないとか、感謝しようとか、恩返ししてあげようとか思って、自分が高尚な人間としてふるまうことが前提となります。

ですが、あなたは痛みを感じている自分を無視して、自分に嘘をつき続けられますか?

自分を攻撃してくる毒親に対して感謝するというのはおかしな話ですよね。

よって、このアプローチも不適切です。

付け加えると、問題解決などしませんので、毒親を許す必要性なんてないし、

あなたがあなた自身を大切に思えるようになってほしいと私は願います。

 

 

さて、毒親への対策について思考検証をしてきましたが、どれも解決方法というまでには及びませんでした。
実はこれまでの対策には共通点があります。
それは、毒親を自我の中に明確に問題意識として持つこと」が前提になっており、問題に対して何かしらの行動や考え方をプラスするという足し算的な発想になっています。

これに対して、「毒親から距離を取る」というのは、毒親を自我の中で小さくしていく」こと、つまり引き算的な発想になっています。
そしてこの引き算的発想こそが毒親問題を解決する唯一の方法であると私は考えています。


ではなぜ引き算的発想が、毒親問題解決の糸口になるのか?
その理由についてはまた今度書ければと思います。

ゴミ屋敷の家

父は仕事に忙しく、常に家にはいなかった。
母は大量の買いだめを繰り返すが、物を捨てない。
母は片付けもできない。
家族の中で、唯一姉が片付けをすることができ、姉に強制されて私も片付けをさせられることが多かった。
しかし、大量の物量が常に入ってきて、物を捨てれば怒られ、子どもの処理能力で片付けをしていってもゴミ屋敷化するのは当然だった。

夏休みなどの親戚が来るときには、いつも姉と私で大掃除を行い、それでも見せられない部屋があったりしながらもなんとか暮らしてきた。


私は小学生にもなると友達の家に遊びに行ったりする機会も増え、自分の家がどんなものなのかが理解できてきた。
自分の家がゴミ屋敷であり、ほかの人の家とは違う、私の家はまずい状態なんだと理解するようになってきた。

緊迫の食卓

母の料理にはいくつか欠点があった。

  • 料理作業が遅い
  • 並行作業が苦手
  • 量が多い
  • まずい

例えば、最初はご飯と、大量のおかずのみが出る。
これでどうやってご飯を食べたらいいのかという状態。
30分ほどすると、主食が出てくる。
次にアツアツの味噌汁が出てくる。
もうこの時点で1時間ほどたっているのだが、最後に大量のまずいおかずが出てくるので誰も食べられない。
その結果、本人はなぜ食べないのかと周りに怒り出す。
父はそんな母に対して怒り出す。
結果的に場外乱闘に繰り出して、洗濯かごがバキバキに壊れる。。
なんてのは日常茶飯事だった。

家族みんなでゆっくり談笑しながら食卓を囲むなんてのは幻想だと思っていた。

アル中の祖父

母は父の実家に嫁いできたのだが、祖父母との仲が険悪で、いつも祖父母のことを悪魔のように文句を子どもたちに言い聞かせていた。
子どもたちはそんな母や祖父母の機嫌を取るような立ち回りを自然としていた。

だが祖父はいつも怒っている過激な人で、アル中だった。

母に向かって包丁を投げるなどたまに手をつけられないことがあった。

そんな祖父は私が小学生になるとアル中やら認知症やらが悪化して、ほとんど歩くこともまともに話すこともできなくなっていた。


ある時、小学1年生の時に私が友達と部屋で遊んでいると

急に「ばあ!ばあ!ばあ!ばあ!」と祖母のことを大声で呼び叫んでいた。

それがずっと止まらず、遊んでいるどころではなくなった私たちは2キロほど離れた山の畑の祖母のもとへ向かったというようなことがあった。

 

小学3年生の夏休み、私は徘徊がひどくなった祖父の見張りを任されていた。
その日、私は植物の水やり当番で、学校に行かなければいけないことを忘れていたことを思い出して、同じ当番の子に謝罪の電話を入れようとした。

祖父が寝ているのを見計らって電話をかけに部屋を出た。


同級生に電話をかけ終わるとガシャーン!!と大きな音が聞こえて駆けつけると、祖父が部屋のドアに頭を打って血だらけになっていた。

その後は救急車で運ばれて何針か縫うことになった。
私が事の重大さを認識できておらず、ちょっと目を離したのがいけなかった。


このように祖父の介護は日常的に行われており、私や家族は常に祖父のことを気にする必要があった。

夜の浜辺に捨てられる子ども

前には海、後ろには山といった自然が豊かで身近というのは島の魅力でもあります。
私の家は海まで50メートルといったところにありました。

ちなみに皆さんは、街頭のない田舎の真っ暗で夜の海を見たことはありますでしょうか。

子ども時代の私にとっては、それは闇の引力を持っているかと思うほど不気味なものに感じていました。

そして私はそんな海のきわ、浜辺に捨てられたことがあります。


何をやったのか正直覚えていませんが、私に対して怒り狂った母親は、横手で泣きじゃくる私を抱えながら、

母:お前なんてもういらない!!!

と、夜の浜辺に捨てていきました。


家からそのまま連れてこられたので裸足のままです。

ちなみに浜辺はきれいな砂浜ではなく、ごつごつした砂利浜でした。

泣きじゃくりながらも裸足で家に帰り、玄関に着くと、玄関は鍵が閉められていました。

私:開けて!

大声で玄関のドアをたたきながら何度も叫びました。
何度も何度も叫んだ甲斐があり、ガチャと玄関の鍵が開きました。

母:うるさい!!!近所迷惑になるだろ!!!

と私を家に入れました。
何か母の気に障るようなことをすれば私は捨てられるんだということを学びました。